⑦中村天風
絶対的積極
中村天風は、政財界等で近代日本を形作った数多くの重鎮を門下生にもつヨガの哲人で、現在でもなお人間学として、心ある数多くの人々に根源的な影響を与えています。
その天風哲学の一つに「絶対的積極」といわれるものがあります。
天風師は人間が存在する真理を探究し、本能や理性的判断を包み込む、精神・魂の領域である「真我」を軸とした揺るぎない生き方を示唆してくれています。
心に無益な悲観や煩悶で日々を送るのではなく、自己を素直に省み、人生に対する確固たる積極意識を信念として確立し、正しい観念により因果の法則から人間の持つ、生来の偉大な力を引き出してくれるのです。
「いつどんなときであろうとも、絶対に失ってはならない態度、それが「絶対的積極」です。
人生全ての出来事を取り仕切るのが「心」であり、その原動力、エンジンとなるのが、「いつも積極、常に積極」という力強い心の態度なのです。
「心」は人生を活きたものにする生命用具ですから、くれぐれもマイナスの意思に心が支配されてはなりません。
仕事がうまくいかないのは、自分の心に積極一本になり得ていないところがあるからです。
決して否定語は使わない。
危機意識はもつが悲観的発想ではなく可能性追求型でチャレンジ欲旺盛。
悩んでいる時間があるなら即実行する。心が高まり、調和を生み出し、仕事を成功へと導く人の共通項こそ「絶対的積極」という強い心の姿、行動の姿なのです。
どんなときも明るく朗らかに絶対的積極な態度こそ、仕事や人生を好転させてくれます。
成功とは絶対的積極心の産物なのです
「100年に1度の不況、1000年に1度の天災」悲観的になりがちですが、絶対的積極で仕事に精進したいものです。」
⑥渋沢栄一編
論語と算盤
「論語で事業を経営してみせる」とまで言い切ったとされる、日本実業界の父 渋沢栄一。
「論語と算盤」は渋沢が生涯にわたって主張し続けたきた言葉です。
‘論語‘とは道徳のことであり、‘算盤‘とは経済のことを指します。
明治新政府の財政混乱の中、四民平等との建前はあれども、
支配層である武士階級の官尊民卑の風潮甚だしく、商工業者は素町人と蔑まれていました。
農業中心の日本社会に、欧米資本主義制度が流入する中、
渋沢は「我が国の急務は商人の品位を高め、商工業をして社会の上流に位置せしめ、高度人材を育成し、
その富により国力を富ますこと」が最重要であると、実業界の編成に乗りだしたのです。
渋沢は産業育成に熱意を燃やし、小資本を集め大資本とする当時では画期的な合本主義を確立していきます。しかしその利益は私財の繁栄目的とするものではなく、すべて日本の繁栄のためでした。
「正当な富を得ることは、国家国民を富ますこと。事業は武士の倫理を持って行い、仁を重んじ、義をつらなかなければならない。
ゆえに商人(実業家)は儒教(論語)を学び、正しい道を知らねばならない。」と繰り返し主張しました。
渋沢は、ヨーロッパ歴訪中の見聞を活かして日本で最初の株式会社方式での経営に乗り出し、
大蔵省の高級官僚として第一国立銀行の設立を指導、同省退官後、その頭取に就任しました。
以後、各界のリーディングカンパニーとして現在なお活躍する多種多様な企業の設立に関わっていき、その数は500以上とされています。
渋沢が民間に下って60年間、
「日本の発展のために実業の世界を育て上げる。そのために実業界の品格を上げていく。」という志はただの一度も狂うことはなかったのです。
道徳の復興(絆)が大切な時代に私達は生きていると思います。今1度「論語」を紐解いてみる事も大切な事ではないでしょうか!
⑤石田梅岩編
商人の道
「富の主は天下の人々なり」
江戸時代の思想家、石門心学の開祖 石田梅岩は、武士一色の封建主義が主流とされていた時代に、
自らの奉公経験と世の中の商業発展とを重ね合わせ、”商人のあるべき道”を天道に沿った心根かに問い、「商売とは何か」を思慮していました。
梅岩の掲げた心学とは、
商人といえども聖人の道を学ぶべきこと。
商人の得る利益は、”武士の禄”の如く、天の人々の役に立つこと。
故に、我が身を按ずるが為に物事を倹約するのではなく、
公益の為に自己を抑制し、義を積むことによって、”仁徳”を成就することだと説いています。
天地自然の理に適う”社会益”に沿った労働をしていきたいものです。
④吉田松陰編
志を立ててもって万事の源をなす
「何事も志がなければならない。志をたてることが全ての源になる」
明治維新の精神的指導者 吉田松陰は、諸国を行脚し、
佐久間象山に学んだ後、萩城下にて松下村塾を主宰。
その後、松下村塾は幕末から明治にかけて雄飛した人材育成の場となります。
29年の人生で抱いた憂国の思いは、藩や日本の範疇を超え、
世界に飛び立つ我が国の「志」を示したのです。
「未来の日本に生きる人々のために」
という気高く強烈な志は、大きく壮大な志の炎となり、
木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ら多くの維新志士たちに影響を与え、
至誠留魂、遂には国家を動かします。
松陰は生涯を通し、志高き実行の人でした。
「志のためならば、命をかける」「体は私なり、心は公なり」
その生き様は今なお多くの日本人を奮い立たせます。
「社会益」と「共生」という観点に立ち
「一生をかけてどれだけ多くの人の役に立たせていただけたか」
という志を立ててお互い社会の進歩、発展に貢献していきたいものです。
③上杉鷹山編
三助の精神
1961年、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが、
日本人記者団の質問に対し、日本人で最も尊敬する
政治家として挙げた上杉鷹山は、江戸時代にさまざまな改革を行い
米沢藩建て直しに成功した名君です。
鷹山は、藩主とは「民の父母」として人民に尽くす
使命があると考え、根本方針を次の「三助」としました。
「自ら助ける自助」
「近隣社会が互いに助け合う互助」
「藩政府が手を貸す扶助」
自助の実現の為に、鷹山は米作以外の殖産興業も
積極的に進め、率先して城中で植樹を行い、
武士も生産に加わるべきだと身を以て示しました。
また、藩士達は無料奉仕で橋を修理し、
領民のために互助の精神を実践しました。
そして、米作が平年の2割程度に落ち込んだ
天明の大飢饉のとき、藩士、領民の区別なく
扶助と互助を実践した甲斐があって
米沢藩では餓死者が一人もでなかったといわれています。
それから数十年の時が流れ、イギリスの女流探検家
イザベラ・バードが明治初年に日本を訪れた際、
米沢を「アジアのアルカデア(桃源郷)」と讃えました。
彼女が見た米沢の美しさや豊かさは、土地だけではありません。
それを創りだした人々の精神が、豊かで美しかったのです。
「一生をかけてどれだけ多くの人に役立たせていただけたか」
を自らに問い続け日々の労働に精進したいものです」
②二宮尊徳編
至誠 勤労 分度 推譲
柴を背負った銅像の二宮金次郎で親しまれている
江戸期の農政家・思想家の二宮尊徳は、
経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走らず社会に貢献すれば、
いずれ自らに還元されると説きました。
その教えは、勉学に励むだけでなく
「人道に沿って生きる」=道心を立て、「誠を尽くす」=至誠、
「日常のすべての行動を至誠の状態で行う」=勤労、
「自然と使わざるを得ないもののみを使う」=分度
「剰余を他に譲る」=推譲を行っていくことで、
いかに徳が徳によって報われるかを見極めることにあります。
つまり、実践の中で初めて理解できるものにこそ報徳思想の真髄があり、
尊徳が「見えぬ経をよむ」という言葉で示しているのはこのことです。
尊徳が勉学と実践から編み出した報徳思想に、
自然界に存在する普遍の法則を見出し、我々は日々の労働に励みたいものです。
ここでは、ゴム・樹脂の歴史を紹介しようと考えておりました。
しかし、今の日本は100年に1度の不況そして千年に1度の天災に遭遇しております。
このような国難の時、先哲の言霊に勇気をいただく事で試練の渦中にある私達の明日に夢と希望を共に共有したいとの思いで 連載しようと考えます。
①西郷隆盛編
天を相手にせよ
「人を相手にせず、天を相手にせよ。
天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、
我が誠の足らざるを尋ぬべし。」
西郷隆盛のことばです。
幕末期、犬猿の仲と言われた薩摩と長州が同盟を結んだことで、
歴史の振り子が大きく動き出しました。
翌年には大政奉還が成立、明治維新へと繋がったのです。
当時の薩摩藩はその強い軍事力を背景に、幕府と手を組むことも可能でした。
それでも彼が、全く新しい体制を創り上げるべく戦ったのは、
天から受けた使命のために、自らを顧みず突き進んだからに他なりません。
西郷隆盛翁は、人々の心を惹きつけてやまない稀有のリーダーでした。
その人柄が、大久保利通、木戸孝允、坂本竜馬という傑出した人物たちの心を一つにし、
誰一人傷つけることなく、江戸城無血開城という歴史的偉業を成し遂げたのです。
彼が信じた「天」とは磨き清められた心によって「人として何が正しいか」を判断する、
普遍の存在。
利己心ではなく、より大きな存在のために生きるという志を意味していました。
とかく、私達は「利己の心」で判断しがちです。
国難といわれる現在ですから、「利他の心」が重要だと思います。
西郷隆盛翁の、「利他の心」を貫かれた生き方に私達も学ぶべき多くの考え方が
あるのではないかと思います。